おもしろうて やがて悲しき はるさんの休日 No20 2026.01.31

第六章 名を問われる

魏の都に戻るころには、季節が一つ変わっていた。
城門は高く、壁は厚い。
だが彼にとっては、すべてが以前と同じ光景に見えた。
人は溢れ、声は騒がしく、誰も足を止める者はいない。
――戻ってきた。
その実感だけが、遅れて胸の底に落ちた。
役所に呼び出される。広くもなく狭くもない、事務的な部屋であった。
上役が座り、机の上には彼が旅の間、肌身離さず持っていた紙が積まれている。
折れ、擦れ、端が黒ずんだ紙。
あの潮騒や、ヤマトの霧を吸った紙である。
それが今、他人の手によって無造作に繰られていた。
「......邪馬台国(やまたいこく)」
上役が、紙を睨んだまま呟く。
彼は無言で一礼した。
「女王あり、とあるな」
「はい」
「名は」
その一言は、あまりに軽かった。
単なる書類の不備を正すような、整理のための問いだ。
彼は一瞬、口を噤(つぐ)んだ。
火の前の女を思い出す。
名を呼ばれず、名を必要ともしなかった女。
そしてその背後に立つ、影のような男。
二人で一つの「理」であった存在。
だが、帝国の公文書には、それを書き込む欄など存在しない。
「名がなければ、記録として体をなさぬ」
上役は言った。責める口調ではない。
ただ、組織の論理としてそう言っているのだ。
通訳が、傍らで記憶を探るように首を傾げた。
「......音は、ヒミコと聞こえた気がいたします」
「気がする」程度の、不確かな記憶。
だが、帝国にとってはそれで十分であった。
上役が筆を取る。止める理由は、どこにもない。
卑。弥。呼。
いくつかの字が並べられ、吟味され、整えられる。
彼はその手元を、ただ見ていた。止められなかった。
やがて、上役が断定した。
「――卑弥呼(ひみこ)」
その音が静かに部屋に落ちた。誰も違和感を示さない。
「名」が決まった。それだけのことである。
「親魏倭王(しんぎわおう)の称を与える件、併せて記せ」
別の紙が出され、別の筆が動く。
話はもう、彼の関与せぬ先へと進んでいた。
彼は最後に、自分の書いた紙を見た。
【公記】邪馬台国、女王 卑弥呼。
その一行は、あまりにも整いすぎていた。
部屋を出ると、廊下の先で人が絶え間なく行き交っている。
誰も、いまこの瞬間に一つの「歴史」が確定したことに気づいていない。
外に出ると、乾いた風が吹いていた。
――あの女は、この名を知ることはない。
――だが、あの国はこの名で呼ばれ続ける。
それを決めたのが自分だとは、後世の誰も思うまい。
彼自身でさえ、そう思いたくはなかった。
ただ、胸の奥に消えぬ痛みがあった。
それは罪悪感ではなく、「書いてしまった」という、取り返しのつかない重みであった。

老後
それから、長い月日が流れた。
彼は役所を辞めた。引き留める者も、慰労する者もいない。
都の外れに、小さな家を借りた。
土地は痩せていたが、朝には風が通り、夜には静寂があった。
筆はまだ持っていたが、もう書くべき紙はなかった。
ある日、孫が尋ねた。
「おじいは、若いころ、何をしてた人なん」
彼は少し考え、答えた。
「......書く仕事や」
「何を書いたん」
彼は、答えられなかった。
国の名。女王の名。道の長さ。
それらを口にした瞬間、あのみずみずしい記憶が、再び死んだ記号に変わってしまう気がしたのだ。
あの旅で見た景色も、震えるような空気も、すべては紙の上で固定され、別のものに変質してしまった。
それを今さら、己の手柄のように語ることはできなかった。
夜、火を起こす。
若いころに見た、あのヤマトの火とは違う。
小さく、すぐに灰になる火だ。
(あの国の火は、今も燃えているだろうか)
確かめる術はない。だが、不思議と不安はなかった。
書いてしまったものは、もう戻らない。
だが――彼は思う。
書かれなかったものまで消し去ってしまうほど、筆という道具は強くはないはずだ。
火が消える。
彼は灰を見つめたまま、しばらく動かなかった。
文字にはできない重さが、世界のどこかには、必ず残っている。
彼はそのことだけを信じて、静かに目を閉じた。

 

はる診療所

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