おもしろうて やがて悲しき はるさんの休日 No19 2026.01.31

第五章 火の前

火は、決して大きくはなかった。
吉備(きび)で見たような富を誇示する火数(ひかず)もなく、出雲(いずも)で見たような整然たる様式もない。
ただ、そこにあるのが当たり前であるかのように、一度も絶やされぬまま赤く息づいている火であった。
人々は、その火を囲むようにして円を描き、座している。
誰も中心に立とうとはしない。
その代わり、一人の女が火の正面に座していた。
微動だにしない。だが、居並ぶ者たちの誰一人として、彼女から目を逸らすことができない。
彼は、一瞬だけ魏の港を思い出した。
あの凄まじい雑踏、耳を劈(つんざ)く怒号、溢れかえる欲望の匂い。
ここには、そのどれもがない。
あるのは、ただ火が爆(は)ぜる微かな音だけだ。
案内役が一歩前へ出ると、上役が続き、通訳が後に続いた。
儀礼の言葉が、形式通りに淡々と交わされる。
だが、女は沈黙を守ったままであった。
彼は、奇妙な焦燥(しょうそう)に駆られた。
――言葉が、少なすぎる。
帝国においては、言葉の多さこそが権力の証明であった。
だがここでは、言葉が不要であると、全員がはじめから承知しているかのようであった。
やがて、女がゆっくりと口を開いた。
声は低い。強くも、弱くもないが、水が岩に染み入るようによく通る。
彼は思わず紙に視線を落とした。
(書くべきか。だが、何を――)
名か。称号か。それとも、魏の役所が勝手に決めた国名か。
そのどれをここに置いても、この場の空気を汚す、無粋な異物にしか見えなかった。
女の背後に、一人の男が立っている。歳は女より若い。
その視線は女とは対照的に、常に周囲の動きを、そして使節団の挙動を油断なく観察している。
彼が、女の意志を補うように言葉を発した。
短く、かつ冷徹なまでに的確であった。
彼は理解した。
――ここでは、この二人で一つの「理(ことわり)」なのだ。
【私記】この国には、命じる声が二つある。だが、それらは常に一つに重なり、隙(すき)がない。
魏からの贈り物が差し出された。箱が開かれ、帝国の至宝が示される。
金、絹、銅鏡、精緻な器。
だが女は、それらの一つひとつに視線を送ることはなかった。
ただ、火を見つめ続けている。
代わりに男が頷く。それだけで、万事が事足りた。
彼は筆を取った。だが、まだ下ろさない。
いまここで安易に文字を刻めば、この国の本質を決定的に見誤るという、確信に近い危惧があった。
そのとき、女がふとこちらを見た。
視線が、合う。
責めるでも、迎えるでもない。
ただ、すべてを任せている目であった。
(書け)
(だが、勝手に名付けるな)
そんな、矛盾に満ちた言霊(ことだま)が脳裏に響いた気がした。
夜が深まる。火は、同じ大きさのまま燃え続けている。
誰も宴を始めようとはせず、誰も終わりを告げようとはしない。
時間が、ここではその意味を喪失していた。
彼は、ようやくこの国の形を掴みかけていた。
――この国は、城によって治められているのではない。
――剣の威力によって抑え込まれているのでもない。
――人が、人を納得させ続けているのだ。この静寂の濃さによって。
その「納得」という目に見えぬ仕組みを、彼の筆は記述することができない。
書けないからこそ、代わりに「名」を記すしかない。
夜明け前、彼は一行だけを記した。
【公記】邪馬台国、女王あり。
筆を置いた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。
その名が、この地の者たちが呼ぶ名ではないことを、彼自身が一番よく知っていたからである。
火は、変わらずに燃えている。
女はなお座し、男は周囲を睥睨(へいげい)している。
何も変わってはいない。
だが、世界はたったいま、この一本の筆によって「書かれて」しまったのである。

 

はる診療所

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