おもしろうて やがて悲しき はるさんの休日 No18 2026.01.31

「祈りの国、そして方角の喪失」

山に入ると、音が消えた。
吉備の平野では人の声が絶えることはなかったが、ここでは己の足音だけが、やけに鮮明に鼓膜を叩く。
道はある。だが、それは人の便宜のために切り拓かれたものではない。
獣が通り、水が流れ、その余白を人がかろうじて歩かせてもらっているに過ぎない。
上役は、不平をもらさなかった。
ここで文句を言えば、この道を歩かされる「意味」を解解できぬ無粋な者として、案内役に侮られることを本能的に悟ったのであろう。
彼は紙を膝に置いたが、筆は取らなかった。
【私記】山は人を選ばない。だが、人の都合も一切、聞かない。
日が変わる。どれほど歩いたか、もはや判然としない。
距離ではなく、ただ重たい疲労だけが澱(おり)のように積もっていく。
やがて、空気が変わった。冷涼というよりは、無垢に澄んでいる。
人の気配は濃い。だが、姿が見えない。
案内役が、祈るような低い声で言った。
「ここは、出雲(いずも)」
彼は思わず立ち止まった。吉備とは、あまりにも対照的な光景であった。
壮麗な城はない。活気ある市(いち)もない。
だが、道が驚くほどに整っている。
人が歩かずとも、その道が「道」として在り続けているような、奇妙な意志を感じさせた。
迎えは、静かであった。列をなすことも、声を張り上げることもない。
ただ一人の男が現れ、深く一礼する。それだけで、すべてが事足りた。
案内された宿の火は小さかったが、絶やされる気配はない。
薪(まき)の扱いにも無駄がなく、この地の精神性が透けて見えるようであった。
夜、酒が出た。酔うためではなく、ただその場に「座る」ための酒である。
話が始まる。声は低く、言葉は極限まで削ぎ落とされている。
彼らは己の国の豊かさを誇ることをしない。
代わりに、山の息吹を、川の理(ことわり)を、そして神の物語を語る。
彼は気づいた。ここでは人が主役ではない。
何か別の巨大なものが、常に人の前に立っているのだ。
【公記】出雲国、人静かにして道整う。
簡潔すぎる記述であったが、それ以上の言葉を重ねれば、この地の静謐を汚してしまう気がした。
翌朝、出立の際、迎えの男が言った。
「道は、ここからが本当の道だ」
その言葉の真意を測ろうとしたが、彼には測りかねた。
「ヤマトは、まだ先だ」
吉備で聞いたものと同じ言葉であったが、その響きには、拒絶に近いほどの覚悟が込められていた。
山を下りるにつれ、風の匂いが変わった。
湿り気が増し、塩の気配が混じる。
案内役が「海が近い」と言ったとき、彼は己の感覚を疑った。
ここまで、南へ、内陸へと向かっていたはずだ。
だがしばらく歩くと、視界が開け、荒ぶる海が広がっていた。
【私記】南へ向かっていたはずが、北の海を見る。方角が、壊れてしまった。
上役が、声を潜めて通訳に問うた。
「これは、どちらの海だ」と。
通訳は、少しの間を置いて答えた。
「海は、ただの海だと申しております」
誰もそれ以上は聞かなかった。
ここで理屈を並べても、何の意味もないと察したのだ。
一行は、再び船に乗った。だが、最初の軍船とは違う。
喫水が浅く、川や湖沼へも分け入れる、小ぶりな舟である。
海はすぐに背後へ退き、代わりに鏡のような真水が広がった。
岸が見えぬほど広いが、波は立たず、空が水面にそのまま溶け込んでいる。
【公記】広き水に入る。
【私記】海と違い、この水は人を拒まぬが、同時にどこまでも惑わせる。
櫂の音が、やわらかい。進んでいるのか、静止しているのかさえ曖昧になる。
日が傾いても、景色は一向に変わらない。
彼は水面に映る己の影が揺れているのを見て、ようやく自分が動いていることを確信した。
【私記】ここは、境目だ。外の世界と「内」を分かつための、巨大な水門のような場所か。
翌日、さらに細い水路へと入り込む。
流れが一方向となり、水は「内へ、内へ」と誘(いざな)っていく。
上陸すると、そこには道らしき道はなかった。
踏み固められた草がかろうじて続くのみである。
草は高く、腰のあたりまでを覆い、風が吹くたびに波のようにざわめいた。
歩く。ただ、歩く。
時間が距離に、距離が疲労に、そして疲労が思考を磨り潰していく。
彼は日付を書こうとしたが、筆が動かなかった。
【私記】ここでは、日を数えることに意味を見出せない。
風の音が、櫂の音に重なって聞こえる。
彼は、ある種の諦念とともに気づいた。
――戻れない。
戻る道を見失ったのではない。
戻ろうという意志そのものが、この霧と草の海に吸い取られてしまったのだ。
やがて山が閉じ、霧が前触れもなく降りてきた。
案内役が、立ち止まって低く言った。
「ここだ」
彼は、身体が先に納得するのを感じた。
城はない。強固な壁もない。
だが、ここが終点であった。
【公記】邪馬台国に至る。
彼はそう書く準備をしたが、まだ筆は下ろさない。
この先にこそ、生涯をかけて書かねばならぬものが待っているという、予感があった。
火が見えた。多くの人が集まっているが、恐ろしいほどに静かである。
彼は初めて、その本質を突いた。
――ここは、神の国などではない。
人が、ここまで「集められた」場所なのだ。

 

はる診療所

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