おもしろうて やがて悲しき はるさんの休日 No17 2026.01.31
「大きな陸」
ある朝、海の色が変わった。 それまでの澄んだ深い青ではない。
川から流れ出す土を含んだ、濁りのある重たい色だ。
案内役が、行く手の水平線を指さして言う。
「ここからは、大きな陸だ」
船は緩やかに湾内へと滑り込んだ。岸が広く、そして人が多い。
港一帯だけで、それまでに立ち寄った小島すべてを合わせた以上の賑わいがある。
荷を積んだ小舟が整然と並び、人が行き交い、喧噪が絶えない。
彼は久方ぶりに、大陸の港を思い出した。
【私記】 人の多さは、国の強さを最も簡潔に示す指標である。
上陸すると、間を置かずに迎えがあった。
列をなして並ぶ男たちの衣は揃い、足取りには確かな規律がある。
儀礼を司る上役が一歩前に出ると、通訳が仰々しく名乗りを上げた。
迎えの男は、泰然として答えた。
「ここは吉備(きび)と申します」
彼はその名を初めて聞いた。だが、一度で覚えた。忘れようのない響きであった。
この地は、水が豊かであった。川が幾筋も平野を走り、船が内陸の奥深くまで入り込んでいる。
市(いち)は広く、物が溢れていた。
鉄。布。塩。穀。
行き交う人々の顔には、飢えを知らぬ者の余裕が漂っている。
ここでの宴は、これまでとは質も量も明らかに違っていた。
並ぶ料理の品数が違い、規模が違う。歌も、酒も、終わりというものが見えなかった。
「ここが、倭の王の国か」
彼は本気でそう思った。堅牢な城塞はない。
だが、それが必要ないほどに、土地そのものが充実しているように見える。
人が集まり、物が巡り、命令が血の巡りのように自然に通っている。
【公記】 吉備国、豊かにして人多し。
彼はそう書いた。借り物の定型文ではなく、初めて自分の言葉で状況を要約した。
夜、宿に火が入る。島で見た心細い火とは違う。
数が多く、明るい。闇が力強く押し返されている。
彼は、場違いな安心感を覚えた。
――ここなら理解できる。ここなら、正しく書ける。
大陸の理屈が通用する「豊かさ」が、ここにはあった。
だが翌朝、案内役が何事もないように言った。 「ヤマトは、まだ先だ」
彼は思わず筆を止めた。
「......ここではないのか」
通訳が戸惑いながら伝えると、案内役は穏やかに笑った。
「ここは通り道だ」
その言葉が、棘(とげ)のように彼の胸に引っかかった。
通り道。これほどの国が、ただの「通り道」に過ぎないというのか。
【私記】 この国では、目に見える大きさが「中心」を決めるわけではないらしい。
吉備を出る日、人々は変わらず丁重であった。
贈り物がさらに積み増された。
上役は「帝国の威光ゆえだ」と満足げであったが、彼だけは暗い予感に囚われていた。
これ以上の豊かさを見せた後に、一体何を見せようというのか。
やがて、巨大な山脈が眼前に立ちはだかった。
島の山とは違う、重なり合い、奥の見えぬ深山である。
案内役が、馬を降りて言った。 「ここからは、歩く」
彼は振り返った。吉備の肥沃な平野が遠ざかっていく。
あの、理解しやすい賑わいが背後に消える。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
――ここから先は、完全に用意された道なのだ。
彼は、そう感じ始めていた。
ヤマトという中心が持つ「磁力」が、いよいよ牙を剥こうとしていた。

