おもしろうて やがて悲しき はるさんの休日 No16 2026.01.31

第四章 「海の上」

港を離れてしばらくすると、音が減った。 人の声が波に削られていく。
船は進み、櫂(かい)が水をかく一定の間隔だけが、世界の拍動のように残る。
誰も喋らない。喋る理由が、この茫漠たる海の上では霧散してしまったのだ。
陸(おか)では沈黙していることは不自然であったが、ここでは黙っているほうが自然であった。

彼は甲板の隅に座り、紙を膝に置いた。
【公記】某月某日、出港。
それだけを記して、筆を止める。 空は広く、境がない。
どこまでが魏の領分で、どこからが倭の海なのか、誰にも分からない。
夜になると星が出た。陸で見る星よりも数が多い。
近く、重い。まるで空そのものが降りてくるようであった。

「海は、音を飲むな」 護衛の男が、耐えかねたようにぽつりと言った。
誰も返事をしない。

翌朝、島影が見えた。最初は雲かと思ったが、それは動かなかった。
島がこちらに向かってくる。
山ばかりの、険しい地勢であった。平らな場所が極端に少なく、人が住む余地などないように見える。
岸に近づくと人影が見えた。多くはないが、彼らはたしかにこちらを見ている。
逃げる様子も、歓迎する様子もない。ただ、静止したままこちらを見ている。

船が着く。 誰かが声を上げるかと思ったが、そうはならなかった。
代わりに一人の男が歩み出た。歳(とし)は判じがたい。
服は簡素だが、立ち方に迷いがない。
通訳が前に出て、短いやり取りを交わした。やがて通訳が振り返る。
「通す、とのことです」 それだけであった。
歓迎も拒絶もない。荷は降ろされ、一行は歩き出した。
島の道は細い。左右はすぐ山に阻まれ、逃げ道はない。
それなのに、不思議と恐怖はなかった。
この島の者たちは、こちらを「客」として見ている。
彼はそう直感した。

【公記】某島に至る。異状なし。
だが、その「異状なし」という事実が、すでに異様であった。

夜、小さな火が焚かれた。 囲めば全員は入れぬほどの、慎ましやかな火である。
だが、誰も不満を漏らさない。 酒が出る。強い。一杯で身体が熱くなる。
歌が始まった。言葉の意味は判じがたいが、調子は一定の節(ふし)を繰り返す。
宴を終わらせようとすると、一人の男が静かに手を上げた。
「明日」
その一言で、すべてが止まった。
彼は紙を広げた。何を書くべきか、少し迷う。
歓迎されたのか、留め置かれたのか。
【私記】 この国では、道を止めることと道を通すことが、同じ意味を持つらしい。
彼はそう書き添えた。
まだ、この一行がどれほど長く、重い記述になるかを、彼は知らない。

翌朝、島は何事もなかったかのように静かであった。
風は弱く、海は凪(な)いでいる。船は出せるはずだった。だが、誰も動かない。
案内役が、昨夜の火の跡を見つめたまま言った。
「今日は神に知らせる日だ」
通訳がそれを伝える。上役は一瞬、眉をひそめて言葉を選んだが、結局は頷いた。
拒めば理由を書かねばならない。
理由を書けば、余計な「解釈」が入り、本国への報告が煩雑になることを彼は知っていた。

【公記】某日、島に留まる。
昼になると人が集まった。昨日より多い。 酒が出る。
昨日より強い。歌が始まる。昨日より長い。
彼は杯が五度回り、歌が三巡するのを数えたが、終わりの合図はなかった。
夜になり、誰かがまた、あの言葉を口にした。
「明日」
その言葉は、命令でも約束でもなかった。動かしがたい「決定」であった。

【私記】この国では時を急ぐことが、無礼に相当する。
三日目、彼は自分が「日付」を疑い始めていることに気づいた。
昨日と今日の境界が曖昧になる。夜の火が昨日と同じ場所にあり、同じ大きさで燃えている。歌も昨日と同じ節だ。
彼は自分の記録を見返した。
【公記】某日、某島。異状なし。
三度、同じことを書いた。異状はない。
だが、その停滞こそが、最大の異状であった。

四日目の朝、案内役が言った。
「今日は、出る」
誰も歓声を上げない。当然のように荷が運ばれる。
船が出た瞬間、彼は胸の奥が軽くなるのを感じた。
だが同時に、奇妙な喪失感もあった。ここでの時間は、もう取り戻せないのだ。

次の島は、前の島より大きかった。
人も多く、市(いち)が立っている。
ここでは「明日」がさらに増えた。 宴はより盛大になり、贈り物が増える。
こちらが持参した品よりも、贈られる品の方が多い。
【私記】この国では物が増えるほど、道が長くなる。

夜、彼は一人で船の陰に座り、筆を持った。
「遅延」と書けば誰かの責任を問うことになる。「儀礼」と書けば何も伝わらない。
結局、いつもの定型文を書いた。
【公記】某島に至る。諸国、礼をもって迎う。
書き終えて、彼は思う。 この旅は、距離では測れない。
ここで測られているのは、我らの忍耐なのだ。
そして、その忍耐を紙の上に定着させている自分自身なのだ。
彼は初めて、己の筆が持つ本当の意味を自覚し始めていた。

 

はる診療所

  • 診療科目
    腎泌尿器科、内科、整形外科
  • 所在地
    〒579-8051
    大阪府東大阪市瓢箪山町4-26
    ツインコスモス瓢箪山201
  • TEL:072-970-6625
    FAX:072-970-6635
  • 交通アクセス
    近鉄奈良線瓢箪山駅 徒歩2分