おもしろうて やがて悲しき はるさんの休日 No15 2026.01.31
第三章 「出立」
出発の日、港は朝から騒がしかった。 荷車の軋む音、馬のいななき、商人の怒鳴り声。人が人を押し、物が物にぶつかり、空気が濁っている。
魏の港はいつもこうだ。自らを世界の中心と任じる帝国には、ひとときも静まる理由がないのである。
船着き場には、五十余名の男たちが集められていた。
同道する上役は二人。一人は儀礼を司る男で、皇帝の名を代弁する特権を持つ。
もう一人は物資を管理する男で、贈答の箱の数と重さだけを勘定している。
そのほかは、それぞれの役割を与えられた者たちであった。
護衛、通訳、航路に精通した者、そして荷を扱う人夫。
誰もが、己の野心や義務といった、何かしらの重荷を背負った顔をしていた。
ただ一人、彼だけが違った。
彼には、この使節が帝国の版図においてどれほどの政治的重みを持つのか、その全容は知らされていない。
彼に求められた使命は、最初から一つだけであった。
――記すこと。 人の名、国の名、日付、距離、そして献上物の品目。
意味を考えず、疑問を挟まず、ただ事実を紙の上に固定する。
それが、この目立たぬ下級役人の全存在理由であった。
港の端で、彼は佇んでいた。 足元には魚籠(びこ)が転がり、泥にまみれた縄が踏まれている。
鼻を突くのは、潮の香りと獣の体臭、そして煮え立つような人の匂いだ。
遠くでは別の船が、別の行き先へ向けて帆を上げている。
その船がどこへ行くのか、彼は知らない。知る必要もなかった。
だが、今日乗り込むこの船だけは、彼の人生において唯一の例外であった。
海の向こう。倭(わ)。 帝国の地図の端に、墨の滲みのように描かれた曖昧な場所。
女王が治め、巫女が神の託宣によって国を動かすという。
文明の側から見れば、それは笑い話に類する未開の風習に過ぎない。
だが、皇帝はその「笑い話」に親魏倭王の称号を与えた。
ゆえに、彼らはこうして海を渡るのである。
不安がないわけではない。だが、それ以上に奇妙な昂(たか)ぶりが胸を突いた。
(いまだ誰も、正しく書き記したことのない国を書けるかもしれない)
そんな、分不相応な野心が、心の奥底で小さく揺れた。
彼は筆箱を抱え直した。懐にある紙の重さを確かめる。
これだけあれば足りるだろう。
もし足りなくなれば、そこが彼の、あるいはあの国の限界なのだ。
「刻限だ」 上役の声が、雑踏を切り裂いた。
船上がようやく静まり、港の喧騒がふっと遠のく。
船の上だけが、現世から切り取られた別世界になった。
彼は最後に一度だけ、大陸の土を見た。
商人が叫び、子供が走り、役人が怒鳴り散らしている。
人が多すぎる、過剰な世界。
彼はふと考えた。 ――海の向こうは、どれほど静かなのだろう。
船が岸を離れる。水を裂く音が、すべてを過去へと遠ざけていく。
このとき、彼はまだ知らない。
この先で出会う国が、大陸の喧騒とは正反対の「沈黙」という名の力によって、人を縛る場所だということを。

