おもしろうて やがて悲しき はるさんの休日 No14 2026.01.31
「筆しか持たぬ者」
ここで、あの下級役人について少し触れておかねばならない。
彼は、もともと旅をするような性質(たち)の人間ではなかった。
生まれは海から遠い内陸の村である。畑と水路しかない場所で、朝には深い霧が出て、夕方にはきまって風が止む。そんな静かな村で育った。
父は役所の下働きであった。命令を伝え、帳(とばり)を運び、自らの意見を一度も口にすることなく一生を終えた男である。
ある日、父は幼い彼にこう言った。
「剣はな、持つ者を選ぶ。だが筆は、剣を持たぬ者が、持たねば生きていけぬから持つものなんや」
彼はその言葉を、長いあいだ意味も分からぬまま、記憶の底に沈めていた。
字を覚えるのは早かった。書いたものが、書いた瞬間にそこへ固定されるのが不思議でならなかった。
人は死ぬ。声は消える。だが、書かれたものだけは、そこに残り続ける。
それが彼には、底知れぬ恐怖であると同時に、唯一の救いであるようにも思えた。
役所に上がれたのは、才能ゆえではない。ひたすらに目立たなかったからだ。
命令に逆らわず、余計な私見を交えず、ただ命じられた通りに筆を走らせる。
帝国という巨大な官僚機構において、それは最も重宝される資質であった。
倭(わ)への使節団に選ばれたとき、同僚たちは一様に彼をあざ笑った。
「都から最も遠い仕事だ」「生きて戻れる保証さえないぞ」 彼は何も言い返さなかった。
戻れずとも、自分が書いた「書」さえ戻ればよい。本気でそう思っていた。
出立の前夜、家に灯りを灯して待つ者は誰もいなかった。
妻も子も、数年前の疫病ですでに失っていた。
役所の仕事を一日たりとも休めなかった彼は、愛する者たちの最期を看取ることさえ叶わなかったのである。
それ以来、彼は紙にだけ向き合うようになった。紙は、裏切ることも去ることもないからだ。
旅に出る際、彼は予備の筆を一本、荷の奥に忍ばせた。
理由は自分でも判然としない。 途中で折れるかもしれぬ。失うかもしれぬ。
だが彼にとって、この世で最も恐ろしいのは、眼前の光景を「書けなくなる」ことであった。
彼はこの旅の道中、一度として剣を抜くことはないだろう。
誰かに命令を下す立場でもない。 ただ、見る。感じる。そして、記す。それだけである。
だが、彼はまだ気づいていない。 この旅において、彼が感じたことを紙に落とした瞬間に、それが「真実」として歴史に刻印されるということを。
そして、彼が書き終えて戻ったのち、その記述がたとえ現実と乖離していようとも、誰一人として彼にその責任を問うことはないということを。
歴史に名を残すのは、彼ではない。
だが、その歴史に「名を与える」のは、彼の持った一本の筆なのである。

