おもしろうて やがて悲しき はるさんの休日 No13 2026.01.31

第二章 「筆の国」

洛陽から遠く離れた帯方郡(たいほうぐん)の役所は、冬になると底冷えがした。
石の床は冷たく、机は重く、紙だけがやたらと軽い。

男は、陳寿(ちんじゅ)ではない。のちに『三国志』を編纂するような高名な文人でも、名を残すような英雄でもない。
ただの記録係――名を呼ばれることも稀な下級役人が、その日も淡々と筆を動かしていた。

「倭(わ)からの使者、だと?」 声を上げたのは上役であった。
興味ではなく、明らかに「厄介ごとが増えた」という色の滲んだ声である。
「また海の向こうか。前に来たのは、いつのことだ」
「......覚えておりません」 「だろうな」
上役は鼻で笑い、机に置かれた木簡を指で弾いた。
「来たのは女王の使いだそうです」 「女か」 「はい。倭では、巫女が国を治めるとか」
上役は、不快そうに眉をひそめた。
「蛮夷(ばんい)らしい話だ。秩序というものがない」

そう言いながらも、すでに筆を取っている。
女であるか、あるいは何者であるかは彼らにとって重要ではない。
書くか、書かないか。それだけが、文明の側の唯一の関心事であった。

「国の名は」 通訳が一瞬、言葉を探した。
「......ヤマト、と申しておりました」
役人の筆が止まる。 「ヤマト?」 音を確かめるように、ゆっくりと繰り返す。
「字を当てねばならんな」

通訳は黙る。倭の言葉には、音はあっても文字はない。
役人は少し考え、紙の端に試し書きをした。
「邪」 「馬」 「台」 「......これでいい」
意味はどうでもよい。音が合い、かつ「東方の蛮族」にふさわしい、いくぶん卑しめた字を選べばそれでいいのだ。

「国号は――邪馬台国(やまたいこく)」 通訳が、恐る恐るその名を復唱した。
書き終えると、役人は小さく息を吐いた。 「よし。これで倭は、邪馬台国となった」
通訳が不思議そうに顔を上げる。 「......なった、のですか」
「書いたのだ」 役人は、まだ墨の乾かぬ紙を指先で叩いた。
「我らが書いた瞬間に、この世にそうなった。それだけのことだ」
筆が走ることで、形のない霧のような土地が、初めて「帝国」の地図に固定されるのである。

「男は」 「弟が補佐しているそうです」 「名は」 通訳は首を振った。聞き及んでいない。
「なら、要らん」 役人は迷わなかった。
「女王がおり、弟がそれを助けている。それで十分だ。余計な名は、記録を濁らせる」
筆は、ナカトの名を探そうともしなかった。
帝国が必要としているのは、分かりやすい「形式」だけである。

「称号はどうする」 「いつものだ」 上役が背後で答える。
「親魏倭王(しんぎわおう)」
役人は書き、巻き、封をした。

その紙が、のちに"史(し)"と呼ばれることになる。
この日、この場にいた者は誰も知らなかった。
この事務的な筆の一振りが、海の向こうで切実に生きていた名のない国と、名を持たぬ男の存在を、永遠に「別のもの」へ書き換えてしまったことを。

役人は立ち上がり、凝った肩を回した。
「さて、次は何だ」 紙の山は、まだ、いくらでも残っていた。

 

はる診療所

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